日本国憲法と世界人権宣言を羅針盤に、弾圧事件・冤罪事件・国や企業の不正に立ち向かう人々を支える人権団体

国民救援会の歴史

国民救援会とは

国民救援会のあゆみ  

源流  

国民救援会がすすめる救援運動の源流は、遠く自由民権運動に始まる日本の近代化のあゆみのなかにあります。

自由民権運動  

明治維新以降、資本主義の国としてあゆみはじめた日本では、近代国家としての枠組みをめぐる争いが起こりました。
政府を握った勢力は、絶対主義的天皇制権力の確立をめざします。この潮流に対抗したのが自由民権運動でした。

自由民権運動とは、1870年代後半から80年代にかけて、絶対主義的天皇制権力確立に向かう政府の専制に反対し、参政権と自由および自治を主張して、憲法制定、国会開設に至る状況をつくり出した国民的な運動を言います。その運動の中核となったのは、士族、ついで豪農・豪商層でした。近代国家の確立が要請された歴史的背景から、国家体制を構築しようとする志向をもっていました。

農民のたたかいとも結んで展開された自由民権運動は、日本におけるブルジョア民主主義運動として大きな歴史的意義をもつものです。しかし、政府による過酷な弾圧と、大日本帝国憲法施行(1889年)に象徴される絶対主義的天皇制権力の確立過程のなかで、挫折・凋落したのでした。

大正デモクラシー  

自由民権運動が挫折させられ、凋落したといっても、国民のなかにその種子は引き継がれていきました。
大正時代(1912年〜)に入ると、進歩的な知識人が中心となった民主主義運動、「大正デモクラシー」が始まります。これは、この時期、日本資本主義が急速な発展を果たし、それにともない成長してきた都市中間層・「無産階級」(労働者階級)の政治的・市民的自由への自覚の高まりが背景にありました。

「大正デモクラシー」でも、さまざまの課題を掲げた自主的集団による運動が展開され、民主主義、自由主義への時代思潮がつくりだされたのです。

新しい担い手  

この時代に、専制政治との根本的対決点におけるたたかいにおいて、自由と民主主義のあらたな担い手となったのは、「侵略戦争反対、主権在民、生活向上、社会進歩などを求め」(綱領)て果敢に活動を展開していた、労働者・農民が結集する社会主義運動、労働組合運動・農民運動などでした。

時代の基本的特徴  

こうして、国民救援会が結成される時期において、国民は、明治の自由民権運動以来の自由と民主主義の思想と運動における積極的財産をわがものとしつつ発展させて、歴史を動かす前面に登場したのでした。

綱領は、国民救援会が結成された当時の時代の基本的特徴を、「当時の日本は、絶対主義的天皇制権力による政治支配のもとで、アジア諸国への侵略と戦争の政策をすすめていた政府と、侵略戦争反対、主権在民、生活向上、社会進歩などを求める国民の運動が激しく衝突し、政府は特高警察と治安維持法などを使って過酷な弾圧を強化していました。」と記しています。

治安維持法下のたたかい  

創立後の活動  

1929年12月21日には、『救援新聞』が創刊されました。その後『救援新聞』は、34年6月の第75号まで発行され、最大発行部数は9000部と記録されています。

30年8月、東京で第2回全国大会がひらかれ、モップル(弾圧犠牲者の国際的救援組織のロシア語名略称)への加盟を決議し、名称を「国際赤色救援会日本支部、日本赤色救援会」と改めました。第2回大会以後、救援活動そのものが治安維持法の「目的遂行罪」として弾圧されるため、国民救援会中央は、非公然活動を余儀なくされました。一方、獄中被告への差入れ・面会、公判傍聴を合法的にすすめるため、市ケ谷刑務所の近くにあった「差入れ事務所」を、国民救援会の事務所とすることにしました。弾圧犠牲者への差入れや、獄中の待遇改善闘争、家族の慰安会、ハイキングなどの多面的な活動が行われました。職場、居住の班も確立し、東京では2500名の会員をもつようになりました。

また、救援活動の法律的・戦術的知識を普及するために「モップルパンフ」が、31年から33年にかけて、10種も刊行されています。「弾圧に対する心得」を説明したパンフも出版されましたが、これは「発行禁止」の処分を受けました。

自由と民主主義を求める国民のたたかいに対する弾圧立法の頂点をなすものが、25年公布の治安維持法でした。治安維持法は、発展・高揚してきた国民のたたかいに対して、さらに弾圧を加える法律でした。治安維持法は、弾圧・攻撃対象の焦点を結社に絞り、「国体ノ変革」という新たな構成要件を導入して、社会主義運動の徹底的な弾圧をはかったのです。28年6月には緊急勅令により、厳罰化と「目的遂行罪」の新設による適用要件の一挙拡大をはかり、この「目的遂行罪」により国民救援会も弾圧対象となりました。さらに、41年にはこれを全面改定し、予 防拘禁制度を新設して「転向」の奨励・推進を行い、思想を理由とする収容制度の創設までにすすんだのです。廃止までの20年間に同法で検挙されたものは7万人とも10万人ともいわれており、この内約1割にあたる人が起訴されました。

治安維持法による弾圧は、裁判によって処罰することよりも、警察留置場への長期の拘禁とこれによる「転向」を強要し、屈服させて釈放後は監視のもとにおいて国民の思想統制を強化することにこそ、その目的がありました。こうした暴虐は、アジア・太平洋地域での侵略戦争の遂行と一体のものとしてすすめられたのです。もちろん、従前からの弾圧諸法も積極的に「活用」されました。

解放運動犠牲者救援会は、自らも治安維持法などによって弾圧を受け、非合法化されながら、こうした活動を積極的にすすめました。そして、組織的活動ができなくなった37年5月以降も、個々の会員によって日本帝国主義の敗戦に至るまで展開されたのでした。

戦後日本の再生のなかで戦後、再建後の活動  

1945年8月、日本帝国主義は、ポツダム宣言を受諾して、侵略戦争に敗北しました。

敗戦にともない、日本は、アメリカを中心とした連合国により、占領下におかれました。占領支配から、52年に形式上は独立主権国家となるまでの8年間は、日本社会に複雑かつ劇的な変化をもたらしつつ、その後の我が国の基本的な枠組みを準備した時代でした。

この占領下で、戦後改革(民主化)が急速にすすみました。こうした民主化の背景には、反ファシズム・反軍国主義の国際合意であるポツダム宣言の枠組みと、戦前からの自由と民主主義を求める国民のたたかい、およびアメリカのアジア政策があります。当時のアメリカのアジア政策の中心は中国にあり、中国に親米政権をつくることがめざされていたために、その脅威である日本軍国主義を解体する必要があったのです。

10月4日占領軍は、治安維持法の撤廃と政治警察の廃止、すべての政治犯の釈放を日本政府に命令、10月10日、政治犯500人が獄中から釈放されました。同日の獄中政治犯釈放の日には、国民救援会が前の月から準備し、主催して、東京・港区の飛行館(現在の航空会館)ホールにおいて「自由戦士出獄歓迎人民大会」を開きました。さらに11月7日には、一ツ橋の共立講堂において、解放運動犠牲者追悼全国大会が開かれました。48年3月18日には第1回解放運動犠牲者合葬追悼会が挙行され、「解放運動無名戦士墓」の墓前で「合葬祭」も行われました。以後、この行事は毎年行われ、今日に至っています。

憲法─あらたな指針をかかげて  

憲法の誕生  

46年11月3日、日本国憲法が公布され、翌47年5月3日施行されました。

憲法草案は、不十分きわまりない日本政府の憲法草案を排し、ポツダム宣言にもとづき、不戦条約( 28年)などを参考に、民間団体である憲法研究会の草案を重視して占領軍がつくったものが政府の独創案として発表・提案され、国会論戦によって修正されて、制定されたものです。

こうした提案に至った背景には、平和と自由・民主主義体制の日本を求める国際社会と国内世論があり、占領軍・政府ともに、これを恐れたという事情がありました。

こうして成立した憲法の、国民主権と国家主権、恒久平和、基本的人権、議会制民主主義、地方自治などの諸原則は、国際世論の要求のなかで、天皇制と大日本帝国憲法のもとでおこなわれた侵略戦争と国民への抑圧にたいする反省のうえにたって、戦前からの国民のたたかいが結実したもので、「人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果」(第97条)であることは疑いありません。

そして、また、憲法は、天皇主権から国民主権へという革命的な変革を遂げるとともに、戦争違法原則を継承した恒久平和主義や、自由権とともに、社会権(社会保障や教育を受ける権利、労働基本権など)を含む基本的人権の保障など、20世紀に人類が到達した平和と自由・民主主義の原則を受けつぎ発展させたもので、世界に先駆的な意義をもつものです。

「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない」( 12条)との規定も受けて、農地改革・労働法制改革・教育改革・両性の平等推進・地方自治確立など、戦後の民主化がさらにすすめられました。

こうして、日本国憲法が、その後の救援運動の「重要な指針」(綱領)となったのは当然でした。また、世界人権宣言の採択( 48年12月10日第3回国連総会採択)と、これに続く国際人権諸規定についても、救援運動で日常的に活用されています。

大衆的裁判闘争の開花  

相次ぐ謀略事件  

朝鮮戦争前夜の1949年、ドッジ・ラインによる行政整理の強行などにより、国鉄は9万4000人、東芝は3000人を解雇するなど、公務員・民間企業の労働者の首切り通告があいつぎ、労使の対立激化のなかで、国鉄をめぐる事件が続いていました。

7月5日、下山国鉄総裁が轢死体となって発見される事件(下山事件)、続いて15日には、無人電車が暴走、6人が死亡する事件が発生しました(三鷹事件)。さらに8月17日には東北本線松川・金谷川駅間で、急行列車が脱線転覆し3人の機関車乗務員が即死するという事件がおこりました(松川事件)。

三鷹事件は国鉄労働者12人、松川事件は国鉄10人、東芝10人の労働者が逮捕・起訴されました。当時は、多くの国民が政府や警察、検察の宣伝に惑わされ、被告とされた労働者と家族は孤立し、苦しいたたかいを強いられました。

松川事件の概要と経過  

松川事件とは、戦後日本における最大の弾圧事件であり冤えん罪事件で、かつ権力犯罪責任追及裁判です。警察はこの事故は首切りに反対する計画的犯行だとして、国鉄労組福島支部や東芝松川工場労組の共産党員らを逮捕し、検察はこの捜査にもとづいて20名を汽車転覆致死罪で起訴。翌50年12月6日第一審の福島地裁は、弁護側の主張・立証をまったく無視して、死刑5名を含む全員有罪の判決、さらに53年12月22日、第二審の仙台高裁も、死刑4名を含む17名有罪、3名無罪の判決を宣告しました。

しかし59年8月10日最高裁は、重大な事実誤認の疑いがあるとして、有罪部分を破棄し仙台高裁に差し戻し、仙台高裁(門田實裁判長)は61年8月8日全員無罪の判決を宣告、最高裁での63年9月12日の検察側の上告棄却判決により14年ぶりに全員無罪が確定しました。無罪確定後、64年5月19日に提起された国家賠償請求裁判も、69年4月23日の東京地裁一審判決で完全勝訴し、70年8月1日の東京高裁による控訴棄却判決により確定しました。

松川事件では、お互いに顔も知らない被告まで含めて、まず20人の被告とその家族が「真実」を守るという一点で団結することがたたかいの出発点でした。岡林辰雄・大塚一男などの弁護士の献身的な活動と国民救援会の努力によって、救援組織・弁護団・被告(モ・ベ・ヒ)の団結が強められていきました。

支援運動の高揚  

法廷の内容を逆に描きだし、デマ宣伝のみを流しつづけるマスメディアに包囲されるなかで、岡林弁護人は、「裁判闘争の主戦場は、法廷の中ではなくて、法廷の外にある。」と喝破しました。獄中の被告は、寸暇を惜しんで手紙を書いて獄外に真実を訴えました。また、生まれてから大勢の人前で話をしたことのない被告の家族も、街頭に立って涙ながらに、夫や子どもの無実を訴え、日本全国に松川事件の真実をひろげていきました。この中で、二審の段階から、職場や地域に次つぎと「松川守る会」がつくられ、活動を開始しました。弁護団も仙台弁護士会会長で自由党員袴田重司をはじめ、思想・信条をこえた広汎な顔ぶれで構成されました。二審の最終段階では、宇野浩二、広津和郎のような著名な作家がペンを執り、『文芸春秋』『世界』『中央公論』等の雑誌が松川事件をとりあげるようになりました。この勢いは最高裁の段階に入って急速に高まり、とくに56年以降、1年に何回となく繰りかえされた大衆的な現地調査によって、自らの足と眼で真実を確信した多数の人びとが支援の行動に立ち上がり、運動を大きく盛り上げました。

民主主義の広がりのなかで  

このような政治謀略・弾圧は、戦前からのたたかいが蓄積され、国民と日本社会に民主主義が大きく広がっていたからこそ、単純・野蛮な暴力から国民世論を偽情報で操作し国民に支持を求める形態に変更されたという性格を見逃すべきではありません。政治謀略・弾圧事件における裁判のたたかいは、戦前とは異にし、また占領前後の時期とも違って、大衆的裁判闘争として開花するに至りました。

当時の国民救援会は今日と比べるとはるかに小さな組織でしたが、これらの事件の救援のために全力を挙げて活動し、たたかいのなかで試行錯誤しながらも、救援運動の発展の基礎を築いていったのでした。

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