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「裁判闘争に勝つ」とは何か-小野寺俊孝弁護士

「裁判闘争に勝つ」とは何か  

第21回裁判勝利をめざす全国交流集会 記念講演

静岡・熱海市で6月19日〜20日に開かれた第21回裁判勝利をめざす全国交流集会で、元青年法律家協会議長の小野寺利孝弁護士が「裁判闘争に勝つとはどういうことか」と題して、記念講演と集会での問題提起をおこないました。要旨を紹介します。(文責・編集部)

 伝統あるこの集会の記念講演という晴れがましい講師に招かれ、会場に来て皆さんの熱気に圧倒されております。
 事件の真実をいかに広げるか、真実をいかに裁判所に伝えるか、当事者・弁護士・支援組織の団結をいかに勝ちとるか、この3点を全分科会共通のテーマとされておられます。この記念講演は、分科会での討論を深める上で、共通の問題認識、あるいは問題提起を位置づけています。
 あえて言えば、さまざまなジャンルの人権裁判闘争における実践を踏まえた問題意識、あるいは教訓といったものを踏まえて、裁判に勝つということはどういうことなのか、どうすれば裁判闘争に勝つことができるのか、45年間の実践を通じて考えてきたところを話させていただきたいと思います。

立ち上がれば変わる じん肺裁判の経験から得た教訓  

 30年間たたかい続けてきたじん肺裁判で考えたことです。常磐炭鉱というのは、福島県いわき、あるいは茨城県の北茨城です。ここ一帯は本州で唯一の山炭地帯であり、そこで働く労働者たちは、顔を炭で真っ黒にして、鼻から炭を吸って肺も真っ黒になる。それをじん肺などということは全くわからず、「坑夫の宿命」と50代前後でみんな肺をやられて職場を去っていく、あるいは短命で、悲惨なじん肺死を迎えていました。
 私が東京でじん肺という問題を知るのは、弁護士となって10年目くらいのときです。井田さんという一人の炭坑夫から相談を受けました。「自分は常磐炭坑で何十年も働いて、じん肺という不治の病で余命いくばくもない。俺がこの病気になったのは、常磐炭坑で炭を掘って炭坑を支えたからだ。せめて社長にそれを認めてもらいたい。苦しんで死んでいくので、見舞いの一つもしてもらいたい」ということでした。端的に言えば責任を認めて謝罪してもらいたい、ということで始まりました。
 井田さんが亡くなりまして、遺族がたった1人の被災労働者として東京地裁で訴えを起こすのですが、これは勝てません。東京地裁に提訴しましたけど、誰も炭坑を知りませんし、炭坑夫、じん肺という言葉も知りません。たくさんの炭坑夫がいて、炭坑夫のじん肺患者がたくさんいるのが福島県いわきです。そこに労働組合もあります。いずれはそこでの集団訴訟を展望しながら、東京で裁判をやろうということでした。
 全く個人的なことでいえば、私がやりたいと思った事件ではありませんでした。なぜなら、私の父親自身が常磐炭坑の炭坑夫でした。そして肺浸潤でクビになって、失業してから、私の人生も狂い始めました。故郷を捨てて、自分は東京で弁護士になってのびのびと新しい人生を切り開いていくんだとやっていたわけです。それが常磐じん肺に関わったらどうなるか。私の友人たちもみんな常磐炭坑に勤めていますし、いわきに行けば私の母が住んでいるわけです。常磐炭坑の城下町というところで、息子が会社を相手に裁判をやるといったら、母はそれを知られただけで村八分になりかねないという状況です。
 こっちは親の苦しみや悩み等は考えないで、いかにして一人でも多くの市民にじん肺裁判を知ってもらうか、支援してもらうか、被害者を立ち上がらせるかということで、月のうちに2度3度、いわき通いをして立ち上がるように呼びかけていきました。最終的には、400人を大きく超えて、じん肺患者たちがたたかって、企業の故意責任まで認める勝訴判決を勝ちとり、全面的に企業が謝罪をして、全面解決に至りました。そんなたたかいを12年半やりました。
 この事件で井田さんが立ち上がらなかったら、おそらくその後の400人を超える患者さんのたたかいというのは、12年半で到達したようなスピード、質、量ではありえなかっただろうと思います。
 井田さんの裁判は東京地裁で、かなり高額の和解金を経営の方が払うことで解決しました。これはたたかいの飛び火を恐れ、火を消すために和解をしたという面がありました。われわれはそれを逆手にとって、1人でもたたかえば和解をとれることがあるんだということをいわきの人に知ってもらって、勇気づけてたたかいに立ち上がっていったという経験を1つご紹介しておきたいと思います。

主戦場は法廷の「外」裁判官を覚醒させる運動を  

 裁判闘争に勝つということはどういうことか。何よりも勝利判決、勝訴判決を獲得するということです。どうやったら勝利判決を獲得できるのか、それと同時に、勝訴判決を獲得できたから裁判闘争に勝つことになるのかという問題です。
 地裁で勝ち、高裁で勝ち、最高裁で勝つ、こんなことをやっている間に、次つぎと当事者が亡くなっていきます。筑豊じん肺訴訟は初めて国の法的責任を勝ちとった裁判闘争ですが、18年余りかかり、原告の患者さんの大半が亡くなりました。最高裁判決を勝ちとったときに、われわれは墓前で勝利報告をするという痛みを持っています。
 それは当事者の要求としてもダメだということです。判決で勝った場合でも、自治体が謝罪をする、あるいは国が謝罪をする、そして誤った政策を転換する、あるいは職場の働かせ方、働き方を変える、経営者が謝罪する。判決を武器にした本来的な全面解決要求を実現するというのが決定的に裁判に勝つということであります。
 いろんな意味で、判決で勝つだけではダメだということと、1つでも勝訴判決が不可欠だというのは、裁判闘争を構える以上は決定的です。

裁判官の共鳴を  

 判決を書く裁判官をどう見るのかというときに3つの側面が挙げられます。.┘蝓璽抜盈充臚魁∈嚢盧枷十蠅了拉曚砲△襪箸い裁判官。憲法上、人権の最後の砦の担い手としての裁判官。0貎佑凌祐屬箸靴討虜枷輯韻任后
 私は、いまは首都圏建設アスベスト訴訟弁護団の団長をやらせてもらっていて、中国残留孤児の裁判もやりました。そうした「政策形成訴訟」を考えるときには、裁判官の歴史認識、社会認識、社会体験がどうなのかが鋭く問われます。極めて脆(ぜい)弱(じゃく)です。そういう裁判官にどうやったら勝訴判決を書かせることができるのか。
 正義・公平を貫く判決を裁判官が書くために決定的に重要なのは、まずは被害事実です。被害事実について、正確かつ単に客観的事実としてだけではなく、生きとし生ける人間がそういう被害にあって苦しみ抜いている被害を、人間性を持って受け止めることです。裁判官も、人間である限りは、ヒューマンな共鳴は持っています。それを震わせる。それは同情というだけでなく、痛みを共有する共感に持っていくということです。同情や共鳴をすれば、過酷な被害を引き起こした加害に対する怒り、その加害の構造的な本質、それでもなお得た会社的な利益、本来的な利益、その犠牲としての被害だということ、その憤り、批判というものを受け止めることができます。
 司法官僚として裁判官は、最高裁からの指導・監督、支配を受けています。生殺与奪の権利を持っているのは最高裁事務総局です。そうであれば、自分がどんな判決を書くかというときに、最高裁がどう見るんだろうかと思わない裁判官がいるでしょうか。どんな人権感覚に鋭敏な人であっても、自分の人生を棒に振ってまで勇気を奮うかということになれば、それを奮えというのは蛮勇を求めることで、そんな裁判官はいません。しかし彼らが、国民主権、民主主義、国家における司法の担い手であるという意味で言えば、国民からの自分の判決に対する強い支持がなければ、裁判所の使命を果たしたことにならないわけですから、それも意識をします。
 私たちは裁判で必ず市民、国民、労働者に支持署名を求めますが、裁判での法廷闘争ですべてが決せられるのであれば、何も法廷外で汗水垂らして署名集めなんてすることはないです。やはり主戦場は法廷の外なんです。裁判官ほど世論を気にする官僚というのはいないんじゃないでしょうか。そこに支持される判決を自分が書くという勇気が求められるわけです。その勇気は、ビラまき、宣伝、報道、要請、署名などによって、「こんなにもあなたの勇気を支え、支持している国民がいますよ」ということを見える形で裁判所に示すことで培われ、その中で、裁判官が正義と公平を貫く判決というものを模索し、決断していくんだ、ということを強調したいと思います。

たたかう心構え  

 裁判闘争に勝つために、たたかう弁護士の心構えは何か。当然、たたかう当事者、あるいは支援する支援組織にも共通に求められる心構えでもあります。
 一番大きいのは、「被害に始まり、被害に終わる」ということです。全ての人権裁判が最終的な勝訴判決を勝ちとり、裁判闘争に最終的に勝利していくためには、「被害に始まり、被害に終わる」というのが確信であります。
 「百聞は一見にしかず」。現場でものを考える。同時に、現場で徹底的に事実を見つめ、不動の事実でもって、法廷の中で、そして法廷の外でも説得的な事実を提示し、その事実の上に正義・公平を貫くに足る法律論を構築していくのが弁護士の基礎です。法律論が先にあるわけでもないし、判例が先にあるわけでもありません。事実を共有するという意味では、原告あるいは当事者と支援組織と弁護士は何の違いもありません。たたかっていくプロフェッショナルに求められるのは、現場主義だろうと思います。
 「裁判闘争の主人公は原告」であり、統一要求に基づく「原告団の団結は生命線」だというのは言うまでもありません。原告団、弁護団、支援の統一団結は勝利のカギです。弁護団に遠慮して物を言えない、あるいは弁護士も運動が思うようじゃないなぁと思いながらも運動には口出さん、こんなことをやっとるような弁護団では勝利は遠のくというのはわれわれの、苦い、苦い経験も含めてであります。
 「主戦場は法廷の外」。たたかいを支持する強力な世論と、政治的潮流の形成こそが裁判官を覚醒させ、司法官僚としての縛りを解放する勇気を呼び起こして、勝訴判決を書こうと決断させていくことでありますし、その判決を武器として要求を実現する。それが企業との関係であれば、働き方、働かせ方を変えるたたかいであり、政治であれば政策を変えていくたたかいの武器になります。その点で言うと、被害の事実、加害の悪質さ、正義・公平を貫く全面解決要求の正当性といったものを、メディアを通じて、多くの世論に訴えていくことも重要です。
 そして、ちょっと口幅ったいのですが、「正確な裁判闘争戦略方針」をもつということです。この戦略方針が間違ったら、全て間違うのは当たり前です。基本において、その法廷闘争と法廷外のたたかいをともに納得をし、確信をし、そして実践を一緒に担う、第一線でやっていくというのがプロフェッショナルな弁護団だということです。当事者や支援の皆さんはここをしっかり見据えて、そういう視点で弁護団と付き合ってください。
 最後に、多様な人権裁判闘争というのが、現在の憲法体系のもとでわれわれが権利としてたたかっていけるということ、しかも、憲法を擁護し、人権を内実化するとりくみを必死に支え、育てて、平和をも支え、育てて確立してきた、本当に何十年の何百万、何千万の先人たちの汗と血のたたかいの結晶の上に成り立っているんだという点を確認して、私も次の世代に繋いでいきたいと考えている一人であります。ご清聴ありがとうございます。

小野寺利孝(おのでら・としたか)
元青年法律家協会事務局長・同議長、日本民主法律家協会常任理事・元事務局長などを歴任。

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